「昭和新山・三松正夫記念館」
世界が認めた火山の記録を、未来の「減災文化」へ。地球の鼓動を体感するミュージアム。
世界が認めた火山の記録を、未来の「減災文化」へ。地球の鼓動を体感するミュージアム。
三松正夫氏の略歴・生涯
1888年(明治21年)生まれ。
1910年(明治43年)の有珠山噴火の調査に訪れた地震学者・大森房吉らの案内役を務めたことを機に、独学で火山への造詣を深めました。その後、1912年(明治45年/大正元年)から壮瞥郵便局長を務めました。
1943年(昭和18年)末からの有珠山の火山活動に際しては、戦時下で専門家が近づけない中、独自の定点観測手法を編み出し、昭和新山の成長記録を完成させました。その後、誕生したばかりの貴重な火山を保護するため、私財を投じて隆起した土地を買い取りました。
そして1948年(昭和23年)、彼が完成させた緻密な観測データはノルウェーのオスロで開催された国際火山会議で発表され、世界的な評価を受けるとともに、その功績を称えて「ミマツダイヤグラム」と命名されました。
在野の観察者として火山の記録と保護に生涯を捧げ、自身3度目となる有珠山の噴火を見届けた1977年(昭和52年)に没しました。現在の2代目館長・三松靖志の曾祖父にあたります。

1888年(明治21年)生まれ。
1910年(明治43年)の有珠山噴火の調査に訪れた地震学者・大森房吉らの案内役を務めたことを機に、独学で火山への造詣を深めました。その後、1912年(明治45年/大正元年)から壮瞥郵便局長を務めました。
1943年(昭和18年)末からの有珠山の火山活動に際しては、戦時下で専門家が近づけない中、独自の定点観測手法を編み出し、昭和新山の成長記録を完成させました。その後、誕生したばかりの貴重な火山を保護するため、私財を投じて隆起した土地を買い取りました。
そして1948年(昭和23年)、彼が完成させた緻密な観測データはノルウェーのオスロで開催された国際火山会議で発表され、世界的な評価を受けるとともに、その功績を称えて「ミマツダイヤグラム」と命名されました。
在野の観察者として火山の記録と保護に生涯を捧げ、自身3度目となる有珠山の噴火を見届けた1977年(昭和52年)に没しました。現在の2代目館長・三松靖志の曾祖父にあたります。

昭和新山誕生の物語
噴火から誕生までの経緯
かつて、有珠山の東麓には平坦な麦畑や集落が広がっていました。
1943年(昭和18年)12月末、突如として激しい群発地震が始まりました。年が明けた1944年(昭和19年)になると、大地が徐々に盛り上がり始め、同年6月には最初の水蒸気爆発が起こります。その後も数か月にわたって噴火を繰り返しました。
やがて地中から粘り気の強いマグマが押し上げられて巨大な溶岩ドームを形成し、1945年(昭和20年)の秋に活動が終息するころには、かつての麦畑は標高約400メートルの赤茶けた火山へと変貌を遂げていました。わずか2年足らずの間に、日常の風景が「世界一大きな野外展示物」へと姿を変えたのです。
当時は第二次世界大戦のさなかであり、世の中は火山の調査どころではありませんでした。専門家すら近づくことが困難な時代に誕生したという背景が、後の「ミマツダイヤグラム」という在野の記録の価値を、より一層高めることになります。
ミマツダイヤグラムとは
その学術的価値と意義
ミマツダイヤグラムとは?
「ミマツダイヤグラム(新山隆起図)」は、三松正夫が独自の工夫と定点観測によって描き出した、昭和新山の成長記録です。
当時は第二次世界大戦のさなかであり、一般の市民が写真フィルムを入手することは極めて困難でした。そこで正夫は、郵便局の脇に手作りの観測拠点を設けます。スケッチの基準線として数本の釣り糸を張り渡し、奥の建物の軒と糸が重なって見えるよう、木の台に顎を乗せて固定しました。
これにより、常に全く同じ視線・同じ角度から山の変化を正確に記録し続ける「定点観測」を可能にしたのです。

この独自の手法で日々描き続けたスケッチの線を、一枚の図面に重ね合わせて完成したのが「ミマツダイヤグラム」です。平坦な土地が徐々に隆起し、巨大な溶岩ドームが形成されていくプロセスが、時間軸とともに一本の連続した線で視覚的に表現されています。
この図面は、1948年(昭和23年)にノルウェーのオスロで開催された国際火山学会で発表されました。精密な測量機器が不足していた戦時下において、一人の民間人の知恵によって火山の誕生から成長の全容が科学的かつ連続的に記録されたことは世界的にも類を見ず、各国の火山学者から驚嘆とともに大きな賞賛を受けました。
「ミマツダイヤグラム」は現在でも、世界的な火山学の基礎資料として、また火山との共生を伝える貴重な記録として高く評価され続けています。

施設の沿革
設立の経緯など
当館の前身は、1969年(昭和44年)に開設された「昭和新山資料館」に遡ります。その後、三松正夫の遺志を受け継いだ初代館長・三松三朗によって、1988年(昭和63年)に現在の「三松正夫記念館」として開設されました。
三朗は当館を「世界一小さな火山博物館」として育て上げ、生涯にわたってミマツダイヤグラムをはじめとする貴重な資料の保存と、火山との共生を伝える活動に尽力しました。
2025年(令和7年)の三朗の逝去に伴い、現在は正夫のひ孫にあたる三松靖志が2代目館長を引き継いでいます。また、同年には施設の存続と環境整備を目的としたクラウドファンディングを実施し、全国の多くの方々から温かいご支援をいただきました。
現在は、先人たちが残した歴史的記録を保存・展示する役割にとどまらず、目の前にそびえる昭和新山という「生きた防災教材」を活用し、次世代へ向けて「減災文化」を発信する教育拠点として新たな歩みを進めています。

三松正夫

三松三朗

三松靖志
施設の沿革
設立の経緯など
当館の前身は、1969年(昭和44年)に開設された「昭和新山資料館」に遡ります。その後、三松正夫の遺志を受け継いだ初代館長・三松三朗によって、1988年(昭和63年)に現在の「三松正夫記念館」として開設されました。
三朗は当館を「世界一小さな火山博物館」として育て上げ、生涯にわたってミマツダイヤグラムをはじめとする貴重な資料の保存と、火山との共生を伝える活動に尽力しました。
2025年(令和7年)の三朗の逝去に伴い、現在は正夫のひ孫にあたる三松靖志が2代目館長を引き継いでいます。また、同年には施設の存続と環境整備を目的としたクラウドファンディングを実施し、全国の多くの方々から温かいご支援をいただきました。
現在は、先人たちが残した歴史的記録を保存・展示する役割にとどまらず、目の前にそびえる昭和新山という「生きた防災教材」を活用し、次世代へ向けて「減災文化」を発信する教育拠点として新たな歩みを進めています。

三松正夫

三松三朗

三松靖志
減災文化とは

当館は「洞爺湖有珠山ジオパーク」の拠点施設であり、この地に根付く「減災文化」の発信拠点です。
「減災文化」とは、火山の脅威を正しく恐れ、その恩恵と共に生きる知恵を次世代へ繋ぐ文化のこと。
この概念の礎を築いたのは、曾祖父・三松正夫の「観測と保護」の精神、そしてそれを地域全体の仕組みへと昇華させた初代館長・三松三朗の情熱でした。
三朗は、火山の記憶を風化させないために、自ら語り部として活動するだけでなく、地域住民が主体となって活動する組織「NPO法人有珠山周辺地域ジオパーク友の会」も設立。さらに、住民が自らの言葉で防災を語る「洞爺湖有珠火山マイスター」制度の創設にも深く関わりました。
火山と向き合い続けてきた生き方は、今や「ジオパーク」や「火山マイスター」という形となり、地域住民一人ひとりの活動へと受け継がれています。当館では現在も、こうした住民組織やマイスターと連携し、世界に誇る「減災文化」を未来の命を守る力へと変える活動を続けています。



減災文化とは

当館は「洞爺湖有珠山ジオパーク」の拠点施設であり、この地に根付く「減災文化」の発信拠点です。
「減災文化」とは、火山の脅威を正しく恐れ、その恩恵と共に生きる知恵を次世代へ繋ぐ文化のこと。
この概念の礎を築いたのは、曾祖父・三松正夫の「観測と保護」の精神、そしてそれを地域全体の仕組みへと昇華させた初代館長・三松三朗の情熱でした。
三朗は、火山の記憶を風化させないために、自ら語り部として活動するだけでなく、地域住民が主体となって活動する組織「NPO法人有珠山周辺地域ジオパーク友の会」も設立。さらに、住民が自らの言葉で防災を語る「洞爺湖有珠火山マイスター」制度の創設にも深く関わりました。
火山と向き合い続けてきた生き方は、今や「ジオパーク」や「火山マイスター」という形となり、地域住民一人ひとりの活動へと受け継がれています。当館では現在も、こうした住民組織やマイスターと連携し、世界に誇る「減災文化」を未来の命を守る力へと変える活動を続けています。



営業時間
| 開館時間 | 8:30 〜 16:30 |
| 開館日 | 毎週 金・土・日曜日 |
| 休館日 | 毎週 月 〜 木曜日 |
| 住所 | 〒052-0102 北海道有珠郡壮瞥町字昭和新山184-12 |
| 駐車場 | 当館の敷地内には、駐車スペースがございません。 お車でお越しの際は、近隣の「昭和新山 公共駐車場(自然公園財団管理)」をご利用ください。 なお、皆様からいただく駐車料金は、国立公園の美化清掃や施設の維持管理に充てられます。地球の鼓動を感じるこの場所を美しく保ち、未来へ受け継ぐための取り組みへ、あたたかいご協力をお願いいたします。 |









